よりにもよって

 沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる議論が再び、噴き出した。国立歴史民俗博物館(千葉県)が8日、「集団自決」の展示から旧日本軍の命令や関与を示す記述を削ったと明らかにした。2007年の教科書検定問題以来、教科書への「軍強制」の記述回復などを求めて活動してきた識者や戦争体験者らからは「これまでの経緯を無視している」「博物館側の責任は重大」などの批判が上がった。
 「最高裁でまだ判決が出ていないので、(軍命令などの記述は)慎重にするべきだと発言した」。同博物館の展示について助言する展示プロジェクト委員の一人、中村政則一橋大名誉教授は、自身の発言が展示内容の変更に一定の影響を与えたとの認識を示した。
 その上で「当時の状況証拠やオーラル(聞き取り)などの社会的事実から、集団自決は軍に強いられたと結論付けられる」と「軍命」を認める自身の立場を説明。「判決がきちんと出て、誰にでも説明できる段階になってから、展示説明を変えることを考えていきたい」と話した。 (沖縄タイムス 2010/03/09 09:38)

 よりにもよってこれまで教科書検定批判や歴史修正主義批判を行ってきた「戦後歴史学」派の重鎮である中村氏が、「最高裁の判決」などというおよそ学問的には顧慮する必要がないものを楯にするとは。「日本政府が密約はないと言っているから」という理由で論文で「密約」に言及しないようなものだ。裁判官が誤認判決を出した場合はどうするのか? 歴史家の主体的立場の放棄でしかない。耄碌したか。

2010年新卒者採用企業の割合

 厚生労働省が5日発表した2月の労働経済動向調査(年4回実施)によると、今年春の新規学卒者の採用について「内定あり」とした企業の割合は、高卒で前年より7ポイント低い31%となるなど、すべての学歴で前年を下回った。(中略)大卒(大学院修了を含む)は、文系が4ポイント低下の32%で、理系は1ポイント低い33%。高専・短大卒は16%と5ポイント下回り、専修学校卒は3ポイント低下の10%となった。
 また正社員が「不足」と答えた事業所の割合から「過剰」と答えた割合を引いた過不足判断指数(DI)は、前回の昨年11月調査から3ポイント改善のマイナス5となり、3期連続で改善。ただ5期連続でマイナスが続いており、企業の雇用過剰感は依然強い。 (共同通信 2010/03/05 19:25)

 再生産される「氷河期世代」。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/keizai/1002/index.html 厚生労働省労働経済動向調査(2010年2月)

某女子皇族の不登校

 宮内庁野村一成東宮大夫は5日、皇太子ご夫妻の長女愛子さま(8)が1日から学習院初等科を休んでいると発表した。愛子さまは現在2年生。野村東宮大夫によると、同学年に乱暴な男児が複数おり、愛子さまは強い不安感と腹痛などを訴えているという。(中略)宮内庁学習院初等科は協議し、学習院では対応策を講じているという。 (毎日新聞 2010/03/05 18:09)

 野村大夫によると、愛子さまは2日は登校したものの早退し、その後は登校していない。学校側に調査を依頼したところ、同学年の複数の男児が、愛子さまを含む複数の児童に乱暴な振る舞いをしていたことが判明、学校側に対応策を要請したという。
 野村大夫は「愛子さまのご様子に関することなので、学校側の了解を得た上で発表した」としている。 (共同通信 2010/03/05 19:20)

 学習院によると、昨年7月から11月ごろにかけ、同じ学年の数人の男子がかばんを投げたり、廊下をすごい勢いで走ったり、大声を出したりしていた。東園基政常務理事は、2日に愛子さまが帰宅する際に「廊下を男の子が走ってきて(愛子さまに)ぶつかりそうになったようだ」とし、「(昨年を)思い出されて怖い思いをしたのではないか」と話した。 (時事通信 2010/03/05 19:27)

 近代天皇制の社会的機能の変容の観点から非常に興味深い。第1に、皇族に「乱暴な振る舞い」をするほどに、現代の子どもには皇室へのタブー感覚が希薄になっていることが窺える。すでに祖父母世代でも明治憲法教育勅語体制の経験がほとんどなく、天皇権威の受容の質が変貌しているのだろう。第2に、数日の不登校程度で宮内庁がわざわざ問題を公にしたことで、すでに宮中・宮内庁が「内々に」学習院に問題を処理させるだけの政治力を失っていることが窺える。昔なら、宮内庁と協議するまでもなく、学校側が問題児童の保護者に「内々に」自主退学を促して処理していただろう。公表することで世論の「乱暴な男児」及び保護者へのバッシングを期待しているとも考えられる。

「明治の貧困と闘った男」

 内橋克人「"貧困"国家 日本の深層 第1回 明治の貧困と闘った男」(NHK教育テレビ『知る楽 歴史は眠らない』、2010年3月2日放送)より。
 明治の代表的実業家であった渋沢栄一にはもう1つの慈善家としての側面があった。戊辰戦争下の江戸は人口が盛期の半分に減り、その6割が貧民という窮状で、幕末の外遊中イギリスの救貧施設に注目していた渋沢は日本における貧困対策の必要性を痛感。1869年新政府の大蔵省に任官すると、産業振興により富を増大させ貧困を削減することを目指すが、軍事支出の確保を優先する大蔵卿大久保利通と対立、結局辞職に至った。渋沢が去った後の政府は軍事優先の緊縮財政を断行し、国家事業の地方負担の増大や士族の家禄廃止に伴う士族の窮乏化等の貧困を拡大させた。(内橋は、「渋沢的」な考え方が政府から消えたことで、個人よりも国家を重視する思潮が主流になったと、渋沢の失脚を明治政府の転換点と評する。)
 野に下った渋沢は実業家として数々の企業設立に関与する一方、東京養育院の院長に就任して慈善事業にも尽力した。渋沢の基本理念は「士魂」=公共の利益の重視であった。東京養育院はもともと外国人の目から「浮浪者」を隠蔽するための収容施設として設立されたもので極めて劣悪な環境にあったが、渋沢は職業訓練、教育、医療における設備強化を行い、貧窮者の社会復帰を支援した。当時の国家予算に占める福祉予算の割合は極めて低く、1881年度でわずか0.1%、地方負担が補完している状態だった。東京養育院は東京府の財政を圧迫していると目されて、議会やメディアから慈善事業がむしろ怠惰な民を作り出していると非難を浴び、1880年から83年の間に予算を4分の1に削減され廃止論も高まったが、渋沢は懸命に救貧策の必要性を訴え養育院の存続に尽力した。
 その後、日清・日露戦争を経て日本の近代化が進み貧困も拡大、1905年には東京の下町だけで貧困層は20万人に膨張したが、国家予算における福祉予算の割合は依然として0.2%にすぎなかった。渋沢は東京養育院の移転拡張に私財を投入、実業界から引退後も慈善活動を続けた。その渋沢も日清戦争後の工場法制定の動きに対しては時期尚早として強く反対していた。(内橋は渋沢の工場法をめぐる立場を「近代日本」の「宿命」「限界」と評する。)
 渋沢の貧困に向き合う姿勢は日本社会全体には広まらず、、「人」より「組織」、「個人」より「国家」を重んじる潮流が拡大、貧困を貧困者の自己責任に帰する今日の貧困観に至った。


 * 時間が限られたテレビなので無理は言えないが、東京養育院の「弱点」は抽出されていない。渋沢時代の東京養育院に対しては賀川豊彦の「生きながらの地獄」という評もある(http://d.hatena.ne.jp/mahounofuefuki/20081103/1225698419参照)。「救済」と「隔離」は紙一重であった。
 ほかに細かい問題としては、渋沢が大久保と財政方針で対立したのは事実だが、すぐに辞職したわけでなく、「岩倉使節団」外遊中における予算方針をめぐる政争が失脚の直接の引き金である。また確かに工場法の早期制定には反対していたが、後に友愛会を後援したり、協調会に関与しており、労使協調路線の制約があるとは言え、労働環境の改良を軽視していたとは必ずしも言えない。

地域主権戦略会議第2回会合

 政府は3日、地域主権戦略会議(議長・鳩山由紀夫首相)の第2回会合を首相官邸で開き、国の出先機関の原則廃止や、国の「ひも付き補助金」を廃止し自治体が自由に使える「一括交付金」を導入するなどの改革案を盛り込んだ「地域主権戦略大綱」(仮称)の6月策定に向け、本格的な議論がスタートした。
 (中略)
 会議では、地方に影響を及ぼす国の政策について閣僚と自治体代表者が話し合う「国と地方の協議の場」設置法案と、国が法令で自治体の仕事を縛る「義務付け」見直しのため関係する41法律をまとめて改正する地域主権推進一括法案も了承。 (共同通信 2010/03/03 18:29)

 国の出先機関廃止も補助金廃止も「義務付け」廃止も、公的雇用が減る(=失業率が上がる)は、地方が勝手に社会保障規制緩和できるようになる(=ナショナル・ミニマムの破壊)は、地方間の生活格差は広がる(=財政力によるインフラ格差)は、住民にとって実は何一ついいことがない。
 これだけ自民党時代の行革推進法・地方財政健全化法体制の継続・強化を明示しているのに、民主党が「大きな政府」志向だの、福祉国家志向だの、国家社会主義(!?)志向だのと言う連中の気がしれん。「地域主権」が、中曽根「臨調」路線、橋本「6大改革」、小泉「三位一体改革」に続く新自由主義「第4幕」となるのは確実だ。

〈追記〉
http://www.cao.go.jp/chiiki-shuken/kaigi/kaigikaisai/kaigidai02/kaigi02gijishidai.html 議事次第と資料

ホームレスと知的障害の「循環」

 東京・池袋で臨床心理士らが実施した調査で、路上生活者の34%が知能指数(IQ)70未満だったことが分かった。(中略)池袋駅周辺で路上生活者を支援する市民団体と協力し、本格的な研究の先行調査として昨年12月29、30日に実施。普段炊き出しに集まる20〜72歳の男性168人に知能検査を受けてもらい、164人から有効回答を得た。
 それによると、IQ40〜49=10人▽IQ50〜69=46人▽IQ70〜79=31人だった。調査グループは「IQ70未満は統計上人口の2%台とみられることからすると、10倍以上の高率」としている。先天的な障害か、精神疾患などによる知能低下なのかは、今回の調査では分からないという。 (毎日新聞 2010/03/02 02:30)

 障害をもつ故にホームレスとなるにせよ、ホームレスであるが故に障害を生じるにせよ、貧困と障害が相互に関連してリスクを増幅していることに変わりはない。貧困問題が「自己責任」「自力救済」では決して解決しないこと、「おひとりさま」では生きていけない社会的弱者には「伴走的救済者」が必要なことを如実に示している。

須田努『イコンの崩壊まで 「戦後歴史学」と運動史研究』(青木書店、2008年)

イコンの崩壊まで―「戦後歴史学」と運動史研究

イコンの崩壊まで―「戦後歴史学」と運動史研究

 「戦後歴史学」の形成から終焉までを、運動史(階級闘争史、人民闘争史、民衆運動史)研究を軸に当該時期の現実社会との緊張関係を重視して整理した史学史。1950年代における「戦後歴史学」の形成が日本共産党の政治路線の強い制約下で行われたこと(国民的歴史学運動と共産党武装革命路線の関連性)、1960年代から登場する人民闘争史が「近代化」論や「明治百年」祭のような「右」側からのイデオロギー攻勢への対抗理論として作られた概念であったこと、1970年代に全盛を迎えた運動史研究が教科書裁判を通して研究の社会的責任を追求する一方、内外の社会主義体制の実態の表面化と「運動」そのもののリアリティ喪失の中で隘路に陥り、社会史の「輸入」によるマルキシズムの相対化の中で「階級」「収奪」「闘争」といった概念や「闘う人民」像の有効性と存在意義が低下したこと等を、具体的に学説・論文を提示・説明して明らかにしている。著者の専攻の制約から日本近世史の業績が中心である。
 本書を一読してわかるのは、「戦後歴史学」が終始、日本社会における「変革主体」をいかに形成するかという問題を強く意識していたことである。現実社会における民主化、ひいては社会主義革命という「ゴール」に向かって闘う「主体」をどう見出していくかという問題意識が底流にあったというのは言いすぎではないだろう(そうでなければソ連の崩壊ごときではビクともしなかったはずである)。歴史家が「変革主体」として想定したのは「民族」であったり「人民」であったり「民衆」であったりするわけだが、問題となるのはいかに歴史家が自らが「民衆」(あるいは「民族」「人民」)の一員だと主観的に思い込んでいても、結局のところ「体制と闘う変革主体」であることを期待される現実の「民衆」とはその意識・行動において決定的な乖離が存在し、そうした矛盾にぶつかるたびに無理に実際の「民衆」から隔絶した「変革主体たりうる民衆」像を見出したり、「民衆」を歴史家にとって都合よく切り貼りされる客体にしてしまったりというようなことを繰り返していたのではないかということである。「戦後歴史学」は「運動」を研究対象としつつ、同時に「戦後歴史学」自体が「運動」であったが、はじめから終りまで常にインテリたる職業歴史家の「人民」やら「民衆」やらへの一方的な「片想い」だったのではないかと思えるのである。
 「戦後歴史学」が想定した「変革主体」の定義の恣意性は、たとえば犬丸義一の1967年の論文における「現段階における人民闘争とは、労働者階級、農民、勤労市民、知識人、中小ブルジョワジーの諸階級、諸階層のアメリカ帝国主義と日本独占資本に反対し、これを打倒する闘争である」(p.p.163−164)という一文に現れている。要するに「アメリカ」「独占資本」という「共通の敵」を(まさに安丸良夫の言うところの「悪の措定」のごとく)提示して、「それ以外」をすべて「変革主体」たりうるとみなすことで階級間、階層間の諸矛盾を霧散させてしまう機能を果たしているのである。本書では言及していないが、この定義自体が日本共産党が狭義の階級政党から「国民」政党へ方向転換(中小資本家や旧中間層への支持拡大戦略)するのに合わせて打ち出されたのではないかと疑わざるをえない。結果としてこうした概念が「一億総中流」の俗論と合わせ鏡のような関係となり、労働者の階層分化に対応できなくなったとも考えられる。
 本書がわざわざ「運動史研究を志す歴史学徒、および歴史学の途に入った学生・大学院生を意識して叙述した」(p.6)と断らざるをえないところに、「戦後歴史学」の敗北、歴史家(少なくとも運動史研究者)の歴史認識と「民衆」の歴史認識のほとんど修復不可能な断層が明らかになっているのは皮肉である。本書のような史学史を「歴史学徒」のみならず、「民衆」一般に向けて発信できるようになった時、本当の意味で「戦後歴史学」を批判的に継承できたと言えるだろうと思った次第である。