須田努『イコンの崩壊まで 「戦後歴史学」と運動史研究』(青木書店、2008年)

イコンの崩壊まで―「戦後歴史学」と運動史研究

イコンの崩壊まで―「戦後歴史学」と運動史研究

 「戦後歴史学」の形成から終焉までを、運動史(階級闘争史、人民闘争史、民衆運動史)研究を軸に当該時期の現実社会との緊張関係を重視して整理した史学史。1950年代における「戦後歴史学」の形成が日本共産党の政治路線の強い制約下で行われたこと(国民的歴史学運動と共産党武装革命路線の関連性)、1960年代から登場する人民闘争史が「近代化」論や「明治百年」祭のような「右」側からのイデオロギー攻勢への対抗理論として作られた概念であったこと、1970年代に全盛を迎えた運動史研究が教科書裁判を通して研究の社会的責任を追求する一方、内外の社会主義体制の実態の表面化と「運動」そのもののリアリティ喪失の中で隘路に陥り、社会史の「輸入」によるマルキシズムの相対化の中で「階級」「収奪」「闘争」といった概念や「闘う人民」像の有効性と存在意義が低下したこと等を、具体的に学説・論文を提示・説明して明らかにしている。著者の専攻の制約から日本近世史の業績が中心である。
 本書を一読してわかるのは、「戦後歴史学」が終始、日本社会における「変革主体」をいかに形成するかという問題を強く意識していたことである。現実社会における民主化、ひいては社会主義革命という「ゴール」に向かって闘う「主体」をどう見出していくかという問題意識が底流にあったというのは言いすぎではないだろう(そうでなければソ連の崩壊ごときではビクともしなかったはずである)。歴史家が「変革主体」として想定したのは「民族」であったり「人民」であったり「民衆」であったりするわけだが、問題となるのはいかに歴史家が自らが「民衆」(あるいは「民族」「人民」)の一員だと主観的に思い込んでいても、結局のところ「体制と闘う変革主体」であることを期待される現実の「民衆」とはその意識・行動において決定的な乖離が存在し、そうした矛盾にぶつかるたびに無理に実際の「民衆」から隔絶した「変革主体たりうる民衆」像を見出したり、「民衆」を歴史家にとって都合よく切り貼りされる客体にしてしまったりというようなことを繰り返していたのではないかということである。「戦後歴史学」は「運動」を研究対象としつつ、同時に「戦後歴史学」自体が「運動」であったが、はじめから終りまで常にインテリたる職業歴史家の「人民」やら「民衆」やらへの一方的な「片想い」だったのではないかと思えるのである。
 「戦後歴史学」が想定した「変革主体」の定義の恣意性は、たとえば犬丸義一の1967年の論文における「現段階における人民闘争とは、労働者階級、農民、勤労市民、知識人、中小ブルジョワジーの諸階級、諸階層のアメリカ帝国主義と日本独占資本に反対し、これを打倒する闘争である」(p.p.163−164)という一文に現れている。要するに「アメリカ」「独占資本」という「共通の敵」を(まさに安丸良夫の言うところの「悪の措定」のごとく)提示して、「それ以外」をすべて「変革主体」たりうるとみなすことで階級間、階層間の諸矛盾を霧散させてしまう機能を果たしているのである。本書では言及していないが、この定義自体が日本共産党が狭義の階級政党から「国民」政党へ方向転換(中小資本家や旧中間層への支持拡大戦略)するのに合わせて打ち出されたのではないかと疑わざるをえない。結果としてこうした概念が「一億総中流」の俗論と合わせ鏡のような関係となり、労働者の階層分化に対応できなくなったとも考えられる。
 本書がわざわざ「運動史研究を志す歴史学徒、および歴史学の途に入った学生・大学院生を意識して叙述した」(p.6)と断らざるをえないところに、「戦後歴史学」の敗北、歴史家(少なくとも運動史研究者)の歴史認識と「民衆」の歴史認識のほとんど修復不可能な断層が明らかになっているのは皮肉である。本書のような史学史を「歴史学徒」のみならず、「民衆」一般に向けて発信できるようになった時、本当の意味で「戦後歴史学」を批判的に継承できたと言えるだろうと思った次第である。