中曽根→橋本→小泉→鳩山と続く「新自由主義モーメント」

 自民党は、60年代後半から徐々に得票率を減退させ、80年代に入るとこれが50%を割るようになる。ここから自民党は農業・商工業をベースにした政党から、本格的な国民政党への脱皮を試みた。その中で、戦略として採用されたのが鈴木内閣および中曽根内閣による行財政改革である。『新中間大衆の時代』(村上泰章)が時代のキーワードとなったように、とりわけ中曽根内閣による都市中間層へのアピールは巧妙かつ合理的なものだった。農業従事者や自営業者との税負担の不公平感を煽ることで支持基盤を広げ、さらには国鉄労組を始めとする官公労を攻撃することで、経済的争点と政治文化的争点とを結びつけ、ここに新たな動因戦略を確立した。(中略)そして「改革と敵探しによって政治の求心力を高める」という手法を生んだ、この「新自由主義モーメント」は、その後の政治のフォーマットを提供することになった。
 新自由主義モーメントは、自社さ連立政権を率いた橋本政権に手渡された。同内閣は行政改革財政再建を始めとする「六大改革」を唱え、1府12省体制の省庁再編に先鞭を付けたほか、財政構造改革法を提出する「火ダルマ改革」を成し遂げる。重要なのは、この90年代の新自由主義政治も、自民党内の「守旧派」や官僚機構に対する対抗戦略として、当時の有権者に広く支持されたことである。(中略)
 90年代の新自由主義モーメントでさらに無視できないのは、「政治主導(執政改革)」概念の定式化とその確立である。中曽根改革で第二臨調が重用されたように、橋本改革の過程でも内閣官房の格上げや補佐官制度の強化、特命担当大臣制度の導入、経済財政諮問会議の設置など、派閥政治と官僚機構に対する制度的な防波堤が築き上げられた。
 「行政改革」「財政改革」「政治主導」の3つを携えて登場したのが、2000年代の小泉構造改革路線ということになる。(中略)彼のいう「聖域なき構造改革」は新たな政治というよりは、新自由主義的政治の戦略の延長線上にあった。 (吉田徹「民主党政権はなぜ脆弱なのか」『世界』2010年4月号、p.p.95−96)

 もっとも、都市中間層の獲得につながる従来の新自由主義政治が完全に破棄されたわけではない。「ムダ撲滅」以外からの財源が期待できないこともあって、独立行政法人公益法人の原則廃止論は撤回できない。新自由主義改革を経て、今では旧国立病院・国立大学、果ては職業訓練機関までもが、こうした行政の減量の対象となっており、結果的に政権は福祉国家路線と新自由主義路線との間の股裂き状態になっている。日本政府の規模は、他先進諸国と比べて公務員数でも、歳出水準でも、突出して大きいわけでは決してないものの、自ら政府の大小について争点化を行ってしまったことで、民主党政権は袋小路に追い込まれてしまった。 (同前、p.p.98−99)

 1980年代以降の新自由主義路線の由来と展開を的確に示している。「行財政改革」「政治主導」という新自由主義のフォーマットに拘泥している限り、福祉国家などありえない。民主党政権交代前も交代後も一貫して新自由主義の強い制約下にある。