山室信一『憲法9条の思想水脈』(朝日新聞社、2007年)

憲法9条の思想水脈 (朝日選書823)

憲法9条の思想水脈 (朝日選書823)

 刊行以来早く読まねばと思いつつ放置してしまい、憲法記念日に合わせてようやく読んだ。書題の通り日本国憲法第9条の思想的源流を探った本。明示してはいないが、現憲法戦勝国による一方的武装解除の下での「おしつけ」であるという見方への批判になっている。山室の著作にはその知性に裏打ちされた実証性と視野の広い複眼的思考にいつも感服するが、この本も例外でない。
 本書は憲法9条の基軸を次の5点に整理する。1)戦争放棄・軍備撤廃、2)国際協調、3)国民主権、4)平和的生存権、5)非戦。これらの基軸はいずれも唐突に現れたものではなく、長い歴史的前提があることを明らかにしている。
 第1に、前近代ヨーロッパの平和構想。サン=ピエール、ルソー、カントの平和論に着目。これらが道義的正戦論や無差別戦争論や勢力均衡論を克服していった。
 第2に、幕末・明治維新期の平和論。横井小楠儒教思想に基づく反省的戦争廃止論)、小野梓(世界政府構想)、中村正直国際法の強化による世界平和論)、植木枝盛(「無上政法論」)、中江兆民常備軍撤廃論)。これらはヨーロッパの平和論の影響を受けつつ、当時の国際環境の現実を批判的に分析した上で、平和主義実現の道を模索した。特に植木→鈴木安蔵憲法研究会→GHQ案の系譜は重要。
 第3に、日清・日露戦争期の非戦論・反戦論。トルストイの影響の大きさを強調する。北村透谷→日本平和会。社会民主党(日本最初の社会主義政党)の軍備撤廃綱領。丸山幹治(「武装平和」批判)。田中正造(「無戦主義」)。幸徳秋水堺利彦安部磯雄内村鑑三らの非戦論と小国主義。日露戦争以前はある程度の社会的支持基盤があった。
 第4に、第1次世界大戦後の戦争違法化運動・体制。大戦前のハーグ平和会議が先駆。国際連盟と不戦条約。特に不戦条約は、アメリカのレヴィンソンやデューイらによる戦争非合法化運動による世論の盛り上がりが引き金になったこと、後の日本占領に関わる人々がこの動きを体験したことの意味を重視している。
 第5に、大正デモクラシー後の国際協調論と非戦論の復活。外交官や法学者らの国際連盟協会。アンリ・バルビュスのクラルテ運動→小牧近江→『種蒔く人』→初期プロレタリア文学の系譜。婦人参政権運動の平和論(特に野見山不二子の軍備縮小・撤廃論)。水野広徳や鹽津誠作の軍備撤廃論(特に鹽津は憲法改正による軍備撤廃を提唱)は9条の直接の源流となる。
 以上のような潮流が戦後の日本国憲法を用意した。また占領下における憲法改正作業において占領軍は自由裁量を持っていたわけでなく、その占領自体がハーグ陸戦法規(占領地の既成法令の尊重義務)とポツダム宣言の制約を受けていたこと、あくまで「日本国民」が自発的に憲法を選び取ったという体裁に配慮したこと(憲法制定議会を特設せず帝国議会が審議し、GHQ案=政府案が議会で修正され、明治憲法の改正手続に従った)も指摘している。
 最後に9条2項のいわゆる「芦田修正」については、芦田の日記や議会の速記録から「虚構」であると推定、少なくとも憲法制定時には自衛のための戦力保持を認めるという意思は読み取れないとする。
 日本国憲法9条は恒久平和実現を模索した長年の営為の結晶であり、近代日本の歴史には終始平和主義が伏流として存在したことがよくわかる良書である。注釈では日本国憲法より古い外国の憲法における戦争制限条項もいくつか紹介されており、日本国憲法の戦力放棄条項が決して突拍子もないものではないこともわかる。9条についての基本的入門書の役割も果たしており、憲法を論じるにあたって必読の書と言えよう。