東浩紀の南京大虐殺不可知論

 ちょっと別の視点で話をつなげます。論壇の役割について本質的に考えると、たとえば、南京大虐殺があったかどうかなんてもう議論してもしょうがないと思っているんです。あえて誤解されそうな例を出しますが。
 というのも、今の状況を考えると、そこでの現実的な解は、南京虐殺があると思っている人とないと思っている人がいて、それぞれが勝手に生きている。それを前提としたうえで、では日本という国家の外交問題をどう組み立てるか、という話でしかないと思う。あっちが正しいこっちが正しい、と論争をやっても解答は出ない。
佐々木 出ないというか、解答はいくつもあり得るということでしょう。
 真実はひとつです。ちなみに、僕自身はあったと考えています。ただ、その真実には論争では到達できない。南京を掘って何十万人もの人骨が出てくればはっきりするけど、それぐらいの現実がないと論争は収束しない。なぜそうなるかというと、ひとことで言うと、いまはネットがあるからです。「南京、日本、正義」と検索すれば大量に「日本が正しかった」というサイトが出てきて、逆に「南京、日本、悪かった」と入れれば逆のサイトが出てくる。そのそれぞれが、大量の情報を独自の視点で解釈して整合的な言説を組み上げている。こういう状況ではもはや、解釈の多様性があるものについては、それを無理に収束させないまま放置して、共通のコンセンサスを作るためには物理的な現実に依拠するしかない。
(「ゼロ年代の言論」『論座』2008年5月号、p.36)*東=東浩紀 佐々木=佐々木敦

 仮に「何十万人もの人骨」が出ても、それが中国人の骨でないとか、骨そのものが捏造だと騒ぐのがオチ。否定論の本質がナショナル・アイデンティティの問題であるということを無視している。「島原の乱」はなかったとか、「戊辰戦争」はなかったなんて言う人はいないことをどう考えているのか。「物理的な現実」なるものは否定論の消長に何ら意味はない。