大澤真幸『不可能性の時代』(岩波書店、2008年)

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 書名の「不可能性の時代」とは、見田宗介がかつて提示した戦後日本社会のモード区分「理想の時代(1945-60)」「夢の時代(1960-70)」「虚構の時代(1975-90)」に続くもので、その内実は「現実への逃避」(特に「極度に暴力的であったり、激しかったりする現実」への「逃避」と)、「極端な虚構化」(「カフェイン抜きのコーヒー」「信仰抜きの信仰」など)という亀裂を抱える。「不可能性の時代」にあっては、超越的な「第三者の審級」(神や理性や「見えざる手」など超越的な他者のまなざしの自覚)が著しく衰退し、「救済」や「希望」の可能性のない「リスク社会」となる。「第三者の審級」の不在下では自己選択としての「自由」や「快楽」が「強制」される。これは昨今の「自己責任論」の本質を突いていよう。
 「不可能性」の不可能とは「他者」に対する矛盾である。

 われわれは、今や、〈不可能性〉とは何か、不可能な〈現実X〉とは何かを、推定しうるところにきた。〈不可能性〉とは、〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。(p.192)

 小は個人的な人間関係から大は国家間の外交関係に至るまで、さまざまな局面に通用する真理だろう。
 大澤は携帯メールの現況などから「家族のような親密な関係を食い破って、外部の〈他者〉と直接性の高い関係を結ぼうとする欲望」を読み取っている。さらに排他的な「愛」に胚胎する「憎悪」の遠心化作用に注目する。「憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを孕んだ愛こそが、われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有している」。本書では触れられていないが、大澤が光市事件の被害者遺族の手記を高く評価していた理由がここにあるのだろう。
 論点は多岐にわたり、さまざまな社会事象を説明する「大きな物語」を提示しようとするあまり、ところどころ首をかしげたくなる部分もある。何より私のレベルでは難しく理解できないことも多い。「不可能性の時代」を終わらせるために誰もが思いつく「破局」という道(「希望は戦争」とか「大恐慌ガラガラポン」とかのいわば「救済なき救済」)に代わる「希望」を提示することが核心だと読み取ったが、間違っていないだろうか。その成否の評価は保留にしたい。