武田晴人『仕事と日本人』(筑摩書房、2008年)

仕事と日本人 (ちくま新書)

仕事と日本人 (ちくま新書)

 日本近代「労働観」史とも言うべき書。「労働」という言葉の誕生にはじまり、前近代から近代、現代に至る「働き方」の変貌、特に時間意識との関係を重視している。労使関係とか労働運動とか労働条件の歴史研究は山ほどあるが、「働く」ということを人々がどう意識したのかというテーマは斬新である。
 前近代においては自律した熟練工だった「渡り職工」や「渡り坑夫」が、近代化により自律性を失い没落していく過程。江戸時代の日本人は外国人から見て「怠け者」に映るほどだったが、家庭と職場が分離し、労働の集約化が進むにつれて、「遅刻」「残業」という概念が生まれ、単位時間内での成果が重視されるようになった結果、労働時間はどんどん長くなっていった。
 「残業」に対するとらえ方が日本は特殊だという。欧米では残業があるのは経営者・管理者の無能の証明とされるため、経営へのペナルティとして割増賃金が高い。しかし、日本では労働組合が弱く、労働契約が無限定なために、結局経営者は残業を前提として経営計画を立て、労働者も残業代を収入の前提とするようになった。「賃金のために働く」という観念が残業を常態化させたという。

 欧米の企業の経営者や管理者は、従業員は残業しない、という大原則に基づいて仕事の計画を立てなければならない。いいかえれば、社員や部下に残業をさせるような経営者や管理者は、仕事の管理が下手である、とみなされる。残業は仕事の計画的進め方を反映して、残業割増率は、通常の基準賃金の50%増程度と、きわめて高い率になっている。残業割増率は経営者や監督者に対するペナルティーとして、高目に設定されている。(荻原勝『残業 “日本的” 功罪を洗う』日本経済新聞社、1975年、p.29、重引)

 時短よりも賃上げを重視する労働運動の傾向に対する批判は傾聴に値する。一方で、武田はカネのために働くという常識の転換を主張しているが、これは注意を要する。カネ以外の「喜び」や「やりがい」といった抽象的なものをあまり重視しすぎると、結局は「やりがい」があれば「ただ働き」でもいいということになり、低賃金労働を正当化する手段に利用されるおそれがある。労働対価は金銭をもって支払うという原則は資本主義下では避けられない命題だと思う。
 なお参照文献が新書にしては豊富なので、この本を出発点に労働関係の先行文献を探すのも良いだろう。