プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(佐々木彰訳、岩波書店、1957年)
- 作者: プーシキン,佐々木彰
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/09/25
- メディア: 文庫
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作中のボリスは「失敗した政治家」であるが、面白いのは彼の主観では「自分は民衆のためにこんなに尽くしたのに・・・」と思っていることで、これは古今東西の権力者に共通する心理だろう(最近だと安倍晋三はたぶんそう思っている)。為政者の評価は「善意」や「道徳」ではなく、政治の結果で為されるべきであるが、変に為政者の心理に同調すると批判精神を失ってしまう。「あの人は無能かもしれないけど、いい人だからかわいそう」と被治者が考えるようになると、それは奴隷への第一歩である。
もう1人の主人公、僭称者ドミトリーことグレゴリーの存在は世襲王権の欺瞞を暴露している。日本の天皇制もそうだが、王位は代々血統上の王族によって継承されるルールである。しかし、実際は当人が「王の血統」であるかどうかが問題なのではなく、周囲の人々が「この人は王の血統である」と承認しているかどうかが重要なのであって、つまり本当に「王の血統」であっても誰も認めなければ王にはなれない(日本だと後南朝系がそうだった)。逆に実際はどこの馬の骨かわからない者でも、多数に承認されたならば王になりうる。神武天皇のY遺伝子がどうのと言っている連中はわかっていないようだが、王の正統性は「王の身体」によっては保障されず、あくまでも社会的承認によって担保されるのである。実際、日本の皇位継承は法的には血統主義だが、儀礼上最も重要なのは「三種の神器」の継承である。「神器」の継承が社会的承認の代替機能を果たしているのである。
ムソルグスキーのオペラの初稿版では「ポーランドの幕」がないが、実は私は通用版より初稿版の方を好む。僭称者のポーランド亡命中の場面よってカトリックと東方正教の抗争というマクロ的世界観が明示され、俄然史劇としての奥行きは広がるのだが、一方でマリーナの存在は余計だと長らく思っていた。というのも原作でも最終場で暗示しかされていないが、史実では僭称者がモスクワに入って最初に為したことはボリスの皇女クセーニヤへの凌辱だった。帝位を簒奪するという僭称者の「暗い情熱」は、文字通り王統の女を征服することによって完成したのである。僭称者はクセーニヤにこそ狂気じみた思いを抱いていなければならず、マリーナとの恋愛話は彼の仄暗さを薄めてしまっている。
いろいろ問題はあるが、やはり何世紀も越えて読み継がれる古典はそれだけの価値がある。ここで描かれる心理劇はそのまま現代でも通用する。翻案してテレビドラマにすることすら可能だろう。