マイケル・ジーレンジガー『ひきこもりの国 なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか』(河野純治訳、光文社、2007年)

ひきこもりの国

ひきこもりの国

 アメリカ人ジャーナリストによる「ひきこもり」を軸とした現代日本社会論。「ひきこもり」の当事者との誠実な対話と、何人もの専門家への丹念な取材を通して、「ひきこもり」の実相をきちんと把握している。専門家では斎藤環山田昌弘のような日本でもおなじみの人々が登場する。しかし、いくら丁寧な取材を行い、たくさんの事実をつかんでも、著者の偏光レンズの色眼鏡がすべてを台無しにしている。
 ジーレンジガーは「ひきこもり」を閉塞した日本社会に対する消極的な異議申し立てと捉える。それは間違っていない。非寛容で同調圧力が強く異論を許さない日本社会の実情は私も痛感している。問題はこうした閉塞の原因を、彼はまるで一昔前の近代主義者のごとくすべて近代化の不十分さに求めている点にある。副題でもある「なぜ日本は『失われた世代』を生んだのか」という疑問に対する著者の回答は、要は日本が市場開放や規制緩和を進めないからだということになる。
 彼の世界観は、多くのアメリカ人インテリと同様、「自由・競争・開放」対「管理・均質・閉鎖」というもので、「グローバリズム=絶対善」論である。日本社会の窒息感は市場開放や規制緩和を進めれば解決するというのが彼の主張である。この男は憲法9条改定も要求する。それもアメリカから自立するために9条を改定して軍備を拡張しろというのだからお笑い草だ。
 「失われた世代」の真っただ中に相当する私に言わせれば、我々から希望を奪ったのは日本の非寛容かつ閉鎖的な社会だけではない。ほかでもないアメリカが押し付けた「グローバルスタンダード」という名の際限のない競争原理こそ主犯である。アメリカ流の市場開放と規制緩和が雇用を不安定にさせ、長時間労働と低賃金と待遇差別を促進し、人間をゴミのように扱う労働環境にさせた。このエリート特派員の無自覚さにはあきれてものも言えない。
 総じて本書は「ハッピーなアメリカ」が「遅れた日本」を見下す叙述だが、少なくとも私はアメリカが「ハッピー」ではないことを知っている。彼の眼には自国の貧窮民は映っていないのだろうか。それとも彼らの貧困は自己責任だと? 非白人の文盲の子どもに生まれてもそう言い切れる自信はあるのか?
 とてもではないが他人には勧められない最悪の本である。