西川祐子『日記をつづるということ 国民教育装置とその逸脱』(吉川弘文館、2009年)

日記をつづるということ―国民教育装置とその逸脱 (ニューヒストリー近代日本)

日記をつづるということ―国民教育装置とその逸脱 (ニューヒストリー近代日本)

 何らかの歴史事象を分析するための歴史資料として日記は重く用いられるが、本書は「日記を書く」あるいは「日記を読む」という行為そのものを分析対象としている。特に市販の日記帳の枠組を通して日記を書くことが国民教化(例えば家計簿と一体化した「主婦日記」が近代的なジェンダーロールの確立を促した)の機能を果たしたことを重視する一方、そうした制約がありながらも日記を書き続けることでそこからの逸脱も生じ得ることを明らかにしている。
 本書では史料としてよく用いられる政治家・官僚の日記は意識的に分析対象から外し、文学者の日記も「生活」に即した記述があるものに限り、その点で日記を「民衆」の「国民」化の表層として浮かび上がらせようとしているのだが、私にはむしろ国民国家からの制約云々よりも、「日記を書く」こと自体が近代においても実は極めて階級的な行為なのではないかという疑いを抱かせた。書中で言及されている通り、日記を書き続けるためには、日記を書く「時間」(執筆を可能にする「自分の時間」)と「空間」(他者に見られずに書ける「自分の場所」)が必要である。また文章を書くということ自体が単なる「読み書き算盤」を超えた教養を要する。「時間」「空間」「能力」というのが日記執筆の必要条件であり、どれか1つ欠けても日記は成立しない。本書が強調する「国民教育装置としての日記」は、実際には中間層以上の「特権」として機能し、それ自体が日記を書けない下層に対する卓越性を保障したのではないか、と考えた次第である。
 なるほどこの本では、末端の兵士の日記や零細商家の丁稚奉公上がりの日記も取り上げられてはいるが、学歴がなくてもある種の「文化」「教養」への強い渇望が読み取れ、少なくとも一種の「読書」層であることは疑いなく、実社会における経済的ステータスはともかく、文化的な優越意識があったと思われる。戦前アナーキズム運動の実践家であったが挫折、その後内外の周縁で不安定な貧窮生活を続け、最後は生活保護受給者となり養護施設で死を迎えた女性の日記が登場するが(本書が紹介した日記の中でも最も鮮烈な印象を与える)、そんな社会の底辺にいながらも「文学作品・芸術作品を特権的なテキストとみなすことをやめない」(p.270)と西川は喝破している。この事例は文学や芸術に価値を見出すような人間だからこそ、日記を書き続けるモチベーションを持ちうると解釈できる。前近代から続く日記の「特権性」は、近代国民国家の下でも失われることなく、そして紙媒体から電子媒体へと移った現在でも続いているのではないか。