リベラリズムとコミュニズムは「現在」の矛盾を「現在」において解消できないが故にファシズムに敗北するという指摘

 1930年代を例にとります。それは大不況が続き、大量の失業者が氾濫した時期です。この時期に「自由主義」は放棄されてしまいました。(中略)市場経済を放置しておいても、自動的な復原力がない。不況は循環的でなく構造的なものでした。
 世界的に見て、その時期にとられた形態は、3つあります。共産主義ケインズ主義、さらに国家統制経済国家社会主義)です。これらは経済的に見れば、さほど違ったものではありません。いずれも、国家の経済過程への強力な介入であり、反自由主義的だからです。もちろん、これらには、大きな差異があります。それは「民主主義的」か否かというような観点ではなく、何よりも「時間」という観点から見ることによって明らかになるはずです。
 たとえば、自由主義共産主義も、将来のために現在を我慢するというタイプです。つまり、それらは「進歩」を信じている。他方、ファシズムアナーキズムアナルコ・サンディカリズム)は、未来ではなく「今ここ」を重視するものです。それは「生の哲学」に根ざしています。(中略)ドイツの場合、ナチズム(国家社会主義)が人を魅惑したのは、将来に向かって現在を耐えるのではなく、「今ここ」で現在の諸矛盾を解消してしまうような幻影を与えたからです。特にハイパー・インフレーションで没落した中産階級(新貧困者)にとって、「待つ」ということはできません。それは「ユダヤ的」ブルジョア思想であり、共産主義思想であるということになります。
 その場合、自由と平等の矛盾を乗り超えるのは、いわば「友愛」としてのネーション(民族)以外にありません。むろん、それは実体的なものではなく、美学的なものです。ベンヤミンファシズムは「政治の美学化」であるといいました。たとえば、ナチズム(国家社会主義)は、ラクー=ラバルトの言葉でいえば、「国家審美主義」です。(中略)
 このように、自由・平等・友愛という要素は、資本主義の現実的な局面において、さまざまなかたちであらわれます。むろん今後においても、それはあらわれます。なぜなら、それらの矛盾はけっして解消されないからです。私の予感では、「共産主義」への幻滅が甚だしい以上、今後の危機において出てくるのはファシズム以外にありません。
 この際に注意しておきたいことは、ファシズムの言説を、粗野で無知で悪質な言説、軍国主義的な、国粋主義的な言説というふうに理解しないでもらいたいということです。それでは、今後にありうべきファシズムを理解できないでしょう。戦前においても、ファシズムにはそれ相応に魅力があり、圧倒的な支持があったのです。もし今後にファシズムがあるとすれば、けっしてかつてのようなファシズムとして出てこないでしょう。それは「民主主義」として出てきます。さらに、そのときに抵抗しうるのは、社会民主主義者ではなくて、頑固な自由主義者だけであろうということをつけ加えておきます。 (柄谷行人『〈戦前〉の思考』文庫版、講談社、2001年、p.p.94−98)

 初出は1992年の上智大学祭での講演で、発言時期を考慮すれば、国民国家批判を前提とした社会民主主義の過小評価という点で、まさに新自由主義イデオロギーを補完する機能を果たしているのだが、引用部分に限れば、今日の政治潮流を占う上で重要な示唆を含んでいる。貧困者、特にミドルクラスからの没落者や、「中流」意識を持って育ったものの「中流」になれなかった「氷河期」貧困者の「屈辱」感を、リベラリズムはもちろんコミュニズムも解消することはできず、必然的にファシズム(的なもの)かアナーキズム(的なもの)が回収するのである。「進歩」、より具体的には経済成長を望めない(正確には「望めないという思い込み」)ということを所与の条件とする思考が支配潮流となっている限り、これは避けられないのではないか。