エラスムス『痴愚神礼讃』(渡辺一夫訳、岩波書店、1954年)

痴愚神礼讃 (岩波文庫 青 612-1)

痴愚神礼讃 (岩波文庫 青 612-1)

 世界史の教科書で名前だけは知っていたが、読んでみたらこれがなかなか痛快。500年前に書かれたものとは思えないほど現代社会にとっても示唆的な文言が続く。

王公は、法律を認めず自分の福楽しか考えていませんから、公共福祉に対しては相当に敵意を持っています。快楽に溺れ、学問や独立不羈や真理を憎み、公益などはせせら笑い、従う則としては自分の欲情と利己心とだけしか持っていません。 (55節)

 説明不要。いつの時代も権力者はこうだとわかる。

高貴この上もない戦争というものは、居候や女衒や盗人や強盗や無作法者や阿呆や借金で首がまわらぬ人間、結局、世のなかの残滓(*)みたいな連中がやらかすものでして、決して、燈火を掲げて夜も眠らない哲人たちにできることではありません。 (23節)
 *渡辺は「カス」というルビを付している。

 戦争が常に標準的ライフサイクルから排除された人々に最も強く支持されたのは歴史が示している通り。現在の日本もまともな職が減り続けばいよいよ危険かも。

賢人連中はこう申しますよ、「自分が当選するようにと、民衆に御追従を言ってみたり、投票を買収したり、山といる馬鹿者どもの喝采を願い求めたり、やんやと言われて有卦に入ったり、偶像のように意気揚々と担ぎまわられたり、己が姿が銅像となって広場へ立てられたりするくらい馬鹿げたことがあろうか? これに加えるに、業々しく姓名を貼り出したり、哀れな一個の人間へ神に対するような栄誉を与えたり、国を挙げての儀式を行って、世にも憎むべき暴君を神に類えたりまでする。これは正しく、一人のデモクリトスだけでは嘲弄するのに手が足りぬほどの狂気沙汰だ」と。そうかもしれませんね。しかし、こういう狂気沙汰から、英雄たちの高貴な行為が生れ出て、多くの文藻豊かな人々の文字によって、雲の上まで持ち上げられることになるのですよ。こういう狂気沙汰から、都市は生れ出るのですし、国権も法制も宗教も、議会も裁判も、それによってこそ保たれるのでして、人間の生活というものは、全くこの痴愚女神様の一寸した手なぐさみにすぎないのですよ。 (27節)

 これなどポピュリズムへの皮肉と同時に、安易な大衆蔑視を逆説的に警告していると言える。

血の気の全然通っていない、世にも馬鹿らしい自作のヘボ詩を自分で持ちまわって、感嘆してくれる人間を見つけるわけなのですが、御当人はウェルギリウスの魂に乗り移られた気になっているのですよ。仲間同士で、敬服と賞讃とを頒け合ったり、慶賀を取り交わしたりするくらい、この連中がうれしがることはないのです。しかし、その一人が、うっかり言い損じなどをし、偶然誰かもっと利巧な男がそれに気づいたりしようものならば、「ヘラクレスの名にかけて!」何という悲劇になることでしょう! 楯をかざして何たる敵意を示すことでしょう! 何という罵詈、何という毒舌になることでしょう! (49節)

 まるで政治ブログ界を予見しているようだ(笑)。
 聖書や古典の原典批判を元に、痴愚神=モリアの姿を借りてカトリックの腐敗・堕落を批判した書とされるが、宗教改革期所産の宗教書という枠を超えている。やはり長く読み継がれる古典にはそれだけの普遍的な価値があるということなのだろう。