「ビジネスの道具としての歴史」と「ナショナリズムの道具としての歴史」のあいだ

 加藤 最近いい傾向だと思うのは、日本をどうにか愛したいんだけれども愛し方がわからないがために、手近な国をさげすんだりすることでナショナリズムを守ろうというような動きが収まって、チャイナインパクトで本当に日本が抜かれる瞬間が予想できるように、歴史をちゃんと勉強しようという雰囲気が出てきたこと。書店にも山川出版社の「もういちど読む山川日本史」や東京大学出版会の「大人のための近現代史」などが並ぶ。ある雑誌で書店員さんがコメントしていましたが、不安や不況の時代は人がまじめになる。上げ潮の時はビジネス書が売れるが、本当に不況、不安の時は歴史書が売れる。しかもきちんとした大学の先生なりが全体を俯瞰して書いた、見通しの良い本が売れるそうです。将来への不安から足元を固め直し、勉強しなおそうと。
 川島 加藤さんの「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」をはじめ、歴史の解説ものが異常に売れている。未来に対する不安が強まれば強まるほど過去に帰っていくところがあり、その不安がグローバルなものや内的なものではなく、東アジアという地域全体の所で来ているようです。東アジアの中で日本はどうなのかをとらえ直したいんでしょうね。日本が第2位の地位を失うという、ある種の覚悟をしなければならないから。 (加藤陽子、川島真「新春四季対談 時代を開く−近現代史の学び方」『北海道新聞』2010年1月4日付朝刊8面)

 「手近な国をさげすんだりすることでナショナリズムを守ろうというような動き」は全然収まっていない。むしろ失業・貧困の増大で社会の底辺では拡大している。加藤が言う「書店員のコメント」から判断するに、「山川〜」や「大人〜」の購買層はビジネス書の購買層=都市中間層とみられ、従来のビジネス書のオプティミズムが昨今の経済状況ではリアリティを喪失する中で、その代替機能を果たしているにすぎない。「ビジネスの道具としての歴史」というある種の地政学的な受容では、容易に「ナショナリズムの道具としての歴史」に置き換えられるのではないか。
 実際、近所の書店では、「山川〜」も「大人〜」も西尾幹二渡部昇一福田和也なんかの本や「坂の上の雲」のガイドブックなんかと一緒に平台に並べられていて、量的には「きちんとした大学の先生なりが全体を俯瞰して書いた」本を圧倒している。1990年代に歴史修正主義が浸透した時、「自虐史観」は日本のビジネスにとって有害であるという論法も用いられたこと、かつて「山川教科書」の執筆者だった伊藤隆が、本来拠って立っていた「実証主義」を危うくしてまでも反共ナショナリズムを優先したこと等を考慮すれば、今回の「歴史ブーム」も「〈あいつら〉と異なる〈われわれ〉の形成」に一役買うだけなのではないか。
 一方で次のような指摘も。

 加藤 (中略)日米の核密約を調べるために大騒ぎをする、なんてことをせず整然と出せるようにする。それを準備するために公文書管理法を昨年作ったわけですが、あの議論の中でも、官僚は中国を意識していました。公文書の管理・公開でアメリカなどに劣っているのは当然かもしれないが、中国や台湾、韓国も日本よりすごいという認識は、あの議論で広まったのではないでしょうか。
 川島 本当にそうです。私としても驚くところがあります。つまり、アメリカやフランス、イギリスより遅れているといくら言っても駄目で、中国との歴史戦争に負けるのでは、というイメージを作っていくと物事が動く雰囲気がった。日本社会にとって中国はそういう利用価値があるかもしれませんね。特に戦後史についてですが、中国も台湾も韓国も公文書が積極的に公開されていけば、北京や台北、ソウルの目線でどんどん現代史が描かれていってしまい、彼らの物語が東アジアの国際政治史の主旋律となってしまうなどという懸念も抱くことになってしまう。 (同前、9面)

 「中国との歴史戦争」という意識がパワーエリートに浸透しているとすれば、それは情報公開の力学にもなれば、逆に情報隠蔽の力学にもなりうる。想像上の「中国」との距離の伸縮によって情報公開が左右される状況はどう転んでも危険である。