小沢一郎のどこが「ハト」なのか?

 小泉劇場で「カイカク」という名の悲喜劇が上演された後に、私たちは小沢か小泉かという選択を迫られている。
 どちらも選びたくはないという人が多いだろうが、敢えて図式化して言えば、小沢は個人悪であり、小泉(及び竹中平蔵)は構造悪である。そして、東京地検特捜部はあの漆間巌麻生内閣官房副長官)の、自民党の政治家には捜査の手は及ばない、という発言に沿って、小沢のみの狙い撃ちに走っている。
 かつて私は、クリーンなタカ派の小泉より、ダーティでもハト派加藤紘一を選ぶと書いたことがある。それについて、クリーン過ぎる市民派の集会で、ダーティなハトより、やはり、クリーンなハトを推すべきなのではないか、と質問されて、呆然とした。残念ながら、クリーンなハトはほとんど絶滅危惧種となっているので、クリーンなタカよりはダーティなハトをと説明したはずなのだが、本能的にというか、生理的にダーティには反発するらしい。とりわけ、そうした思考停止の市民に検察は正義の使者と映るのだろう。 (佐高信風速計 小沢一郎か、小泉純一郎か」『週刊金曜日』2010年2月5日号、p.9)

 第1に、小沢は「個人悪」という前提が間違い。公共事業の配分権力を笠に企業からカネをせしめるのは「構造的」不正であり、企業が政治献金や裏金を捻出すればするほど、労働者は賃金低下という犠牲を払わせられる。小沢も小泉も「構造悪」である。
 第2に、小沢一郎はもちろん、加藤紘一も少なくとも失脚前は経済的には「ハト」ではなかった。「構造改革」路線は小泉政権に始まったのではない。中曽根内閣期以来の長期の潮流であり、その間小沢も加藤も一貫して「小さな政府」政策に加担している。労働者派遣法改悪時、小沢は与党だった。加藤はかつては規制緩和・民営化サイドにいた。2000年代初頭、仮に小泉ではなく加藤が政権を獲得していたら、加藤の手で「改革」が行われただろう。現在の小沢も歳出削減・地方分権を通した「構造改革」を推進している。
 第3に、「クリーン過ぎる市民」は、小沢の「ダーティ」に反発しているのではない。彼の履歴に内在する「タカ」派傾向に反発しているのである。旧著『日本改造計画』を読めば、小沢が新自由主義路線への抵抗者たりえないことは一目瞭然だ。その昔、社会党自民党と連立してまで小沢を敬遠したのは、まさに彼の「タカ」ぶりを警戒したからではなかったか。小沢は当時から何も変わっていない。変わったのは際限なく妥協を続ける「左派」の方である。
 小沢が非正規雇用をすべて正規雇用にするとか、金持ち優遇税制をやめて所得増税を行うとか、行政の責任放棄をやめてナショナルミニマムを保障するとか、失業者を救済するために公務員を増員するとか主張しているのならば、それこそ陰謀論でも何でも動員して擁護してやってもいいが、そうでない以上、小沢を擁護する気などさらさらない。検察が平沼騏一郎や鈴木喜三郎の昔から国家主義タカ派なのは周知の事実だが、それ以上に「政治主導」と称して司法権の独立がますます損なわれる方が危険である。
 しかし、この頃の「民主党に投票した左派知識人」(まあ佐高はそもそも知識人というには疑問だが)の劣化ぶりは目に余るなあ・・・。