松井慎一郎『河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実』(中央公論新社、2009年)
- 作者: 松井慎一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/12/18
- メディア: 新書
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個人的に注意を引いたのは、河合が農商務省奉職時代に関わった工場法の施行をめぐる問題である。河合によれば、工場法施行令の策定にあたって、農商務省工務課の官吏らは「一様に労働者保護に就いて熱心な関心を抱」き、「資本家を圧えて労働者を助けよう云う希望」を共有していたが、労働者保護が国家の経済発展を阻害すると目される事態にぶつかると「神聖なる殿堂の前に立てるが如くに、労働者保護への関心を放棄した」という(p.95)。その結果、工場法施行令は多くの適用除外規定によって骨抜きにされた。官僚サイドにおける「資本の利益」=「国益」という思考の粘着が、当の官僚たちの善意の有志を駆逐し、社会的公正の実現の壁になるという問題は、「労働再規制」へ転換したはずの厚生労働省の労働者派遣法改正作業が、実質的な骨抜きの方向で進んでいる今日、決して過去の問題ではない。同時に「国家の発展」を最優先するナショナリズムでは本質的に資本の論理を克服できないこともわかる。
もう1点。1920年代以降の社会不安拡大の流れの中で、河合は終始政治的自由・社会的自由を重んじて、一方ではマルキシズムを、他方でファシズムを徹底的に批判したわけだが、本書を読む限り、経済的平等への視点があまり窺えない。マルキシズムの台頭も、ファシズムへの期待も、貧困と格差の拡大という前提があり、経済学部の社会政策講座の教授としては当然無視しえなかったはずである。もし、具体的な貧困対策を講じずに、いたずらに労使の「人格的成長」に賭けていたのならばもはや問題外である。インテリの言論の自由のためには生命を賭けても、貧乏人の生活保障のために働かなかったとすれば、それはリベラリズムの限界と見るべきだろう。