廃藩置県の前提としての藩の債務踏み倒し

 ところで、明治3年(1870)の「藩制」では各藩に債務と藩札の処理が命じられていたが、藩は公的な統治機関だったので、それらは政府に引き継がれた。(中略)外債400万円は元利償却分を差し引いて現金で償還されたが、国内債は7413万円のうち52パーセントにあたる3926万円が破棄される。発行された新旧公債も維新前からの旧債は無利子50年償還、明治元年以降の新債は4分利付3年据置き25年償還と、債権者にとってはきわめて悪条件の内容で、最終的には藩債全体の8割が切り捨てられたとしている。一方、藩札は廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。
 江戸中期以降、多くの藩は借入に頼って藩政を維持してきたが、明治政府は多く見積もっても28パーセントしか引き継いでおらず、最後のツケは貸主に回された。とりわけ解体された旧幕府家臣団の債務はすべて私債とみなされて事実上回収不能となり、江戸の金融を支えてきた札差たちは借り手の旗本・御家人ともども瓦解した。また、仙台など「朝敵藩」とされた地域における商人の打撃も計り知れない。さらに、大名貸を行ってきた大阪の両替商も多額の不良債権を抱えることとなる。 (落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』中央公論新社、1999年、p.p.71−72)

 統治機構の対内債務は最終的には権力行使として踏み倒すことでしか解消しないという歴史事例。