家近良樹『幕末の朝廷』(中央公論新社、2007年)

幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白 (中公叢書)

幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白 (中公叢書)

 主題は「なぜ孝明天皇は開国路線に立ちはだかったのか」で、1858年の日米修好通商条約勅許不可に至る朝廷の政治過程を追究している。井上勝生や藤田覚の「天皇家VS鷹司家」説や「光格天皇孝明天皇による主体的な朝権回復行動」説を否定。孝明天皇は基本的に優柔不断で気の弱い君主だったが、安政期の「幕末的状況」が彼の立場を浮上させたとする。

 孝明天皇は、毅然とした態度で開国を阻止したのではなかった。彼は、ただただ追い詰められて迷い苦しみ、その彼の困惑の結果が頂点に達して破裂した結果、開国路線に待ったがかかることになった、というのが実情に近い。
 ではなぜ、孝明天皇は開国通商に同意しなかったのか。本書中で、これまでたびたび取り上げたように、天皇は、幕府に対しても、朝廷内の人物に対しても、ひと一倍気を遣う性格の持ち主であった。また封建割拠(幕藩)体制の存続を当然のこととし、朝権の拡張にも熱心ではなかった。その天皇が、安政五年に入って、突如として一見英邁な天皇に転じるのはなぜか。
 これにはさまざまな理由が考えられるが、最も根本的なそれは、責任問題の浮上であろう。もし幕府が唯一の中央政権として、自らの判断で条約に調印し、そのことを一方的に調停に通知したなら、孝明天皇は、これほど悩まないで済んだといってよい。ところが、幕府はそうしなかった。前述したように、天皇(朝廷)の同意をえて、挙国一致という形で開国しようとしたのである。そのため、勅許を与えれば、天皇(朝廷)にも重大な責任が負わされることになった。それに加えて、たとえ形式的にせよ、自分が日米修好通商条約の調印をすんなりと認めてしまうと、日本全土が内乱状態になるのではないかとの思いが天皇のなかに燃え上がり、どうにもこうにも結論をくだせなかったことも理由の一つに数えられよう。(p.p.223-224)

 要するに安政条約勅許不可は孝明天皇の「責任回避」の産物だったという。
 「鷹司家記」「東坊城聡長日記」「実万公記」など宮内庁書陵部所蔵の未公刊史料を多用しているだけに説得力はあり、孝明天皇の人物像については、藤田や佐々木克あたりの「豪胆な君主」像は明らかな過大評価だろう。

 ところで、家近は1854年の内裏炎上に注目している。この時、孝明天皇は御所から焼け出され、むき出しの板輿に乗せられ避難所を転々としたという。てっきり1863年の有名な攘夷祈願のための賀茂社行幸で初めて御所の外へ出たのかと思っていたが、さにあらず、すでにペリー来航の頃に御所の外を目にし、民衆の様子も肉眼で見ていたのだ。この体験が彼の君主意識に影響を与えたとしている。
 もう1点。天皇には徳川斉昭鷹司政通ラインや京都所司代武家伝奏ラインなどを通して高度な政治情報が入っており、当時トップシークレットだった徳川家定の奇行の状況なども知っていたという。天皇には何も知らせず、関白が専断していたということはないそうだ。この時代でも「情報天皇に達せず」ということはなかったということだろう。