対人コミュニケーション能力の絶対化

 社会学者の宮台真司さんが以前「学生の階層性(学生の中での上下みたいなこと)が何によって決まるか」について研究したことがあって、そこで彼は対人コミュニケーション能力に注目しています。簡単に言えば、1980年代後半ぐらいから、対人コミュニケーション能力が若者における良い/悪い、上/下をわける尺度になっているのではないか、という説を立てた。
(中略)
 この対人コミュニケーション能力は、不平等という観点から見るときわめてやっかいな性質を持っています。自分がいじめられた、不当に恵まれなかったと感じると、この能力は損なわれやすい。不当に何かを奪われたという自己認識を持つと、強い自己不安を抱えたり、他人に対する攻撃性を持ってしまう。優しさとか、人当たりのよさを身につけにくいのです。だから、優しさや人当たりのよさを重視する集団からは排除されやすい。今の若者言葉を使えば、とても「イタい人」として嫌がられ、人格的に評価されなくなるわけです。
 つまり、自分が何かを不当に奪われているとか、社会からはじき出されていると思うことが、それ自体で何かをさらに失ったり、はじき出される原因になってしまう。たとえ恵まれていないと感じても、それを他人のせいだ、社会のせいだと考えるより、運だと考えてしまうほうが、一人ひとりの人生設計としては合理的なんです。
(中略)
 これはすごくやっかいな事態です。恵まれてきた人が本当に、対人コミュニケーション能力を持ちやすいとすれば、何か是正措置がとられない限り、対人コミュニケーション能力の高い人の多くは恵まれた環境に育った人になってしまう。「マネジメント力」みたいなものも環境によって左右されてしまうわけです。でも、それを環境のせいだと考えると、考えた当人はもっと不利な立場に追いやられる。だから、極力そう考えまいとする。そんなメカニズムが考えられるのではないでしょうか。(佐藤俊樹の発言より、橘木俊詔編『封印される不平等』東洋経済新報社、2004年、p.p.49-51)

 「若者のヒエラルキー」だけでなく、現在ほとんどの企業が最も重視する選考基準が「対人コミュニケーション能力」である。
 故に、「貧しい」「いじめられた」「恵まれない」「何かが欠けている」といった喪失感 → 学校生活や就職戦線や職場内での立ち回りに不利 → 「喪失」の再生産、という定式が成り立つ。「努力が報われない」とか「生きにくい」という感覚を生み出す社会構造。