「なぜ左翼は勝てないのか」という問い

(前略) 逆に言えば、非典型労働者の排除や周辺化の「責任」は、トータルな社会構造にある。とすれば、ここにひとつの疑問が生ずる。非典型労働者の増大は、なぜ、左翼勢力の拡大につながらないのか? 労働者の味方であるはずの左翼が、なぜ、この機に、支持を拡大させられないのか? (中略)しかし、ネット等に現れる若者たちの言動の圧倒的な主流の中では、広義の右翼的なものが蔓延しており、左翼は揶揄や嘲笑の対象である。秋葉原事件と関連させれば、疑問を次のように言い換えることもできる。なぜ、犯人の怨みは、彼の雇用者や為政者に向かわず、「誰でもよい」という形で焦点を拡散させてしまうのか、と。
(中略)
 左翼は、「戦争被害者、在日外国人、女性、フリーター・・・」といった弱者を次々と見つけ出し、それら弱者に同情し、同時に弱者差別を批判する。問題は、こうした弱者への同情が、常に「安全な場所」からのみ発せられているということである。自分自身は弱者の渦中にはいない限りで、つまり弱者に真に近づかない限りで、弱者の味方になろうと、というわけである。「同情」が、むしろ、弱者との安全な距離を保障している。左翼は、弱者を「応援」することで、自分自身の善き心、麗しい魂を確認し、ナルシスティックに陶酔しているように見えるのだ。 (大澤真幸「左翼はなぜ勝てないのか<上>」『北海道新聞』2008年7月30日付夕刊6面)

(前略) 非典型労働者が増大するこの機に、なぜ左翼が支持を拡張できないのか、が疑問であった。左翼を特徴づけるのは、普遍性への愛着である。だが、事態を複雑なものにしているのは、普遍性を真に社会的に実効的なものにした動因は、資本主義にこそある、という事実である。資本主義的な市場では、すべての事物が、使用価値としての多様性を超えて、貨幣で表現できるような抽象的な価値をもつ。同様にすべての人が、具体的な個性を超えて、抽象的な労働力の主体としては同一である。こうした現実を背景にしてこそ、すべての個人は、抽象的な人権の主体としては平等だという普遍的な理念も説得力をもつ。
 今日、フリーターやニートの自尊心を傷つけているのは、彼らが、いつでも、誰とでも交換可能な小さな部品にすぎない、という扱いを受けるからである。だが、これは、資本主義的な普遍化の作用のきわめて素直な表現にほかならない。左翼を困難に陥れている究極の原因は、結局、資本主義を上回る実効的な普遍性を提起できていないからである。(後略) (大澤真幸「左翼はなぜ勝てないのか<下>」『北海道新聞』2008年7月31日付夕刊6面)

 立論の前提に疑問あり。「左翼」と一口に言っても、文字通り「安全な場所」から見下ろせる弁護士や既成労組幹部や大学教授などのエリートと、失業や貧困や逮捕など社会的排除のリスクを背負う「活動家」とでは様相が異なる。同様に「弱者」も「左翼に認知された弱者」と「左翼に認知されない弱者」の相違がある。後者が「左翼」を支持しないのは当然で、そこで問わねばならないのは「なぜ左翼を支持しないのか」ではなく、「なぜ左翼から『弱者』として認知されないのか」であろう。
 往々にして問題となるのは、「左翼」に取り込まれる「弱者」とそうでない「弱者」の決定的な違いは、前者が「自己の救済」と同時に「他者の救済」を積極的に容認しているのに対し、後者は「自己だけの救済」が究極の目標で、しばしば「他者への苦役」を「自己の救済」の必要条件と考えがちだという点である。要するに「左翼」の目標と「弱者」の目標が全く異なる場合、当然「弱者」は「左翼」を支持しないのである。すでに日本では1930年代に同じことを経験済みである。
 普遍性云々の件も含めもう少し検討が必要。