「希望は火事」だった明治初年の貧困層

されば家に病人の出来るか不具者のありて食うこと能わざるに至れば、ただ世間に火事のあらんことを望むなり。その故は焼け跡に行きて釘を拾い意外の銭儲けあればなり。近来は火事もなきゆえ失望し居るとは世は様々のものなりかし。かかる墓なき社会にてもそれぞれ義理交際という事あり。去月二十三日は旧暦の二の午にて同地稲荷の祭礼ありしが、店子の貧民どもは思い思い備え物をなす処を見れば、なお人間の皮を被りたる甲斐あるものに似たり。この中には自ら肩書を付けざるも士族の果てもありて、この人はとかく手純しとて日雇いの口も少なければ自然窮乏の者多し。 (「府下貧民の真況」『朝野新聞』1886年4月4日付、中川清編『明治東京下層生活誌』岩波書店、1994年、p.p.28−29)

 天変地異による「他力救済」願望の源流としての「希望は火災」。食うや食わずやの状況でも稲荷に供え物をするのは、供物行為を通して共同体への帰属を証明することで最低限の尊厳を確保すると同時に、「神頼み」を通した救済願望が読み取れる。没落士族を「手純(てぬる)し」と評価して、周縁の労働市場における「弱者」と位置付けることで、貧困者の自尊心が満たされたことは想像に難くない。