佐谷眞木人『日清戦争 「国民」の誕生』(講談社、2009年)

日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)

日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)

 日清戦争は東アジア史において近代と前近代を分かつ最も重要なターニングポイントだったという認識を前提に、日清戦争の文化的表層の実態を明らかにしている。書名は『日清戦争』だが、いわゆる政治史・軍事史的叙述はほとんどなく、日本の一般の人々がメディアを通していかに戦争を「体験」し、それによって人々の世界観がどう変容したかという問題に主眼を置いている。特に新聞の従軍報道、「軍国美談」、演劇界の戦争劇、戦勝記念のイベントやモニュメント、学校教科書などを分析対象としている。
 従軍報道においては、「客観的事実」を装いつつ、その実記述者の政治性が混入する問題を強調する。日本と清国・朝鮮国との「差異」を伝える報道には、西洋化をバロメーターとして「遅れた清、朝鮮」と「近代化した日本」の非対称性を際立たせ、差別・侮蔑意識を喚起する機能があった。いかに「善意」をもって他民族と接しても、「憐れむべき愚かな民」という意識が自民族の優越と侵略の正当化に容易に転じる。本書では松原岩五郎や国木田独歩の従軍記事にそうした問題を読み取っている。海外メディアの旅順虐殺事件報道に日本のメディアが激昂したのは、そうした「近代化した文明国である日本」というアイデンティティを動揺させたからであり、福沢諭吉の『時事新報』が海外報道を「捏造」とヒステリックに断じたように、その後繰り返す類似の事例の端緒となった。
 川上音二郎壮士芝居を軸に、日清戦争と演劇の関係について1章を割いているが注目される。川上一座は日清戦争の美談を演じることで人気を集めたが、その戦闘場面は観客にとって戦場の「疑似体験」であり、戦争の目的を正当化するプロパガンダ機能を担った。また、同時期に歌舞伎の日清戦争劇はリアリティの不足から不評に終わり、それを機に歌舞伎は時事的な演目を敬遠して古典劇として特化していく。日清戦争を機に、「型」を基本とする歌舞伎の表現と近代の身体感覚との間の齟齬が明確になったのである。
 本書が明らかにした日清戦争期の民衆とメディアの「共犯」関係は、現在の日本社会にとっても示唆的である。書中、当時の「戦勝気分」を回顧した田山花袋の「維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲りあがった日清の役の排外的気分は見事であった。戦争罪悪論などはまだその萌芽をも示さなかった」(『東京の三十年』)という一文など、妙にどきりとさせられる。日清戦争までは明治政府に対する反感が強く、子どもの「戦争ごっこ」でも「官軍」が悪玉で西郷隆盛が善玉の役割を与えられていたという生方敏郎の回想も興味深い。言うまでもなく日清戦争を機に、善玉は日本軍に、悪玉は清国軍へと変貌していく。そして政府への反感も消えていくのである。
 また、戦争の「疑似体験」という点では、東京での戦勝記念式典で、上野不忍池に清国の軍艦に見立てた模型船を浮かべ、爆破とともに花火が打ちあがるというアトラクションが行われたという逸話が印象に残った。好戦的イベントが民衆を動員する上で極めて効果的であることがわかるが、現代でも洗練された「疑似体験」ならば、本物の戦争と変わらない国民統合の効果を与えることができるのではないか。実戦が抑止されている現在、国家内の矛盾を隠蔽する手段として、ある種の「疑似戦争」が行われる危険性は増していよう。