坂野潤治編『自由と平等の昭和史 1930年代の日本政治』(講談社、2009年)

自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治 (講談社選書メチエ)

自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治 (講談社選書メチエ)

 1930年代半ばの政治言説における「自由」と「平等」の相克についての3本の論稿から成る。
 坂野潤治「反ファッショか格差是正か―馬場恒吾と蠟山政道」は、1936−37年における政治的自由と経済的平等をめぐる言論から、自由主義者馬場恒吾社会民主主義者の蠟山政道を特に取り上げる。馬場も蠟山も吉野作造民本主義論の影響を受け、二大政党制を志向しながらも、両者の間には既成政党との距離において決定的に違いがあった。馬場は政友・民政の二大政党制を前提に、民政党による反ファッショ政権を目指したが、蠟山は既成政党への不信が強く、社会大衆党の成長に期待する。この相違は、馬場が議会制民主主義下の「平和と自由」を重視する一方、蠟山が「平等」による民衆の利益配分を手続き的な政治的自由よりも優先したことに起因する。1936年の衆院選における社大党の躍進と2・26事件後の軍部の台頭により、馬場は既成政党と軍の「穏健」分子との提携による反ファッショ的な「立憲独裁」論へと転向し、蠟山は社大党と政友・民政両党の「改革」分子と軍部・新官僚との提携による国家統制的な「立憲独裁」論へ変貌していく。坂野は馬場も蠟山も「自由」と「平等」の両立に失敗したと断じる。
 田村裕美「民政党の二つの民主主義―永井柳太郎と斎藤隆夫」は、同じ立憲民政党内にあって、政治的自由主義を貫く一方で社会的平等への関心の薄かった斎藤隆夫と対比する政治家として永井柳太郎を取り上げる。永井の言論を時代を追って紹介し、学生時代から一貫して「社会的弱者」の救済という視点が貫かれていると再評価する。
 北村公子「『革命』と『転向者』たちの昭和―野上彌生子を読む」は、1930年代の野上彌生子の言説から共産主義運動からの「転向」に対するまなざしを分析する。野上には共産主義「革命」への深い共感の一方で、転向者の懊悩にも同情的であり、なおかつ冷静で「アカデミック」な視角を併せ持っていたと評価する。
 坂野論文に関しては、馬場恒吾の二大政党制論が昨年衆院選時の「無条件政権交代論」に類似していることが注目される。馬場は軍部強硬派と接近する政友会を嫌っており、いわば非「政友」政権として民政党に期待していた。一方で現実問題として民政党政権は1930年前後には緊縮財政により世界恐慌下における貧困を増大させ、本質的に三菱財閥をスポンサーとする「資本家政党」であり、到底「民本主義」的政策は期待できない。蠟山政道が二大政党制のもう一方の極として、民政党ではなく発展途上の社会大衆党を仮定したのもそれ故と思われる。今日においても財政や行政改革地方分権などで「構造改革」の継続を明示している民主党を無条件で支持することは、貧困・格差・失業問題を軽視することであると1930年代の歴史は示していると言えよう。
 田村論文は、斎藤に比べ無名の永井の言説の紹介に終始し、突っ込んだ分析は行っていない。私個人はその昔永井に少し関心があっていくらか調べたことがあるので、特に新知見は得られなかった。
 北村論文については、野上彌生子の2・26事件時の日記の記述に注目した。

彼ら(引用注―真崎甚三郎や荒木貞夫)に好き勝手にさせるのだ、戦争もさせるがよい。それでめちやくちやに負けた時に、彼らに取つて代るものこそ本ものだ。その間は日本の民衆はずいぶん苦しまなければならないが、しかしそのために生ずる効果をおもつてすべての苦痛と試練にたえなければならぬ。 (pp.167−168)

 北村は野上の「鋭敏な政治的直感」をたたえるが、それどころではない。この記述はいわば「敗戦による革命状況を到来させるための戦争」待望論であり、「革命」という正しい目標の実現のためならば、民衆が苦しむのも辞さないという政治主義・清算主義である。この立場では貧困や格差が増大した方が「革命」の早道ということになり、目の前の社会的矛盾の解決を放棄することになる。「現在」の矛盾を「現在」ではなく「未来」において解決するという共産主義の構造的弱点が見事に表出している。一方、数年前左翼が徹底的に叩いた赤木智弘の「希望は戦争」論の源流は、やはり戦前の左翼の言説に胚胎していたことも確認できる。野上は明らかに軍事クーデターが戦争に直結することを期待しており、「自力」での革命ではなく、「戦争」による客観的情勢の転換にこそ希望をつないでいると言えよう。野上についてこれまで『秀吉と利休』の作者ということ以外知らなかったが、戦前のマルクス主義との関わりの深さとその言説の「先駆性」(良い意味でも悪い意味でも)に瞠目した次第である。