「変革主体」の「条件」

 この戦争はどうもおかしいのじゃないかと言っている人が、戦争中にもいたのを、私は知っています。代表的なのはうちの母親で、共産青年同盟に加わっていた夫と一緒に農地解放をやってるうちに自分でも勉強して、町中の鼻つまみになっていた。ただし薬品をたくさん持っていたので、村八分みたいなことにならずに済んでいました。その薬品は酒石酸という、胸やけ、胃もたれに効く結晶粒です。実はこれ、サイダーなどの清涼飲料水の原料ですから、母は米沢市あたりまでを含めてサイダー業界の女王だったわけで、彼女を村八分にしてしまうと、山形県南部の人たちは、夏にサイダーが飲めなくなってしまう(笑)。それで母の言辞は聞こえないふりをされていました。 (井上ひさし東京裁判三部作と日本国憲法」、岩崎稔ほか編『戦後日本スタディーズ1 40・50年代』紀伊國屋書店、2009年、p.p.248−249)

 「安全圏」にいるからこそ体制と対立できたという実例。「村八分」にされては生きていけない真の「弱者」は決して体制と闘うことはできない。「体制からの抑圧の苦痛」<「体制との闘争・葛藤による苦痛」となればなおさら。一方、支配潮流に飲み込まれない親を持てたからこそ、井上の自由な人格が形成されたこともわかる。社会のヒエラルキーの下層に位置する者ほど、支配イデオロギーを相対化する視点を持つ機会がなく、「変革主体」たりうるのは常に中間層以上であるともいえる。どこまでも「安全圏」にいる者の「モラル」に依拠せざるをえないのが「運動」の宿命なのだろう。