橘木俊詔、山森亮『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』(人文書院、2009年)

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

 経済学の橘木と社会政策学の山森の貧困問題に関する対談。新自由主義の来歴、これまでの「格差論争」の内実、賃金体系のあり方、労働における男女差別、年金制度における保険料と税の問題、ベーシック・インカムの可能性等々、論点は多岐にわたるが、対談であるだけにわかりやすく、「貧困と格差」や社会保障問題の入門書となりえている。
 現在の社会保障制度が基本的に「働ける人」と「働けない人」の恣意的な選別主義に立っているため、多くの貧困者をフォローしきれていないこと、それ故に普遍主義的な福祉への転換が必要であること、方向性としては保険料制度から税による制度設計が望ましいという点で両者はほぼ一致していると思われるが、決定的な対立点は表題にもなっているベーシック・インカムの実現可能性の是非にある。山森は現行の社会保障制度への絶望的不信からベーシック・インカムに賭けているが、橘木はこれに懐疑的である。これは福祉国家の評価の相違とも言える。
 今まで私はベーシック・インカムについて「保留」の立場だったが、山森には悪いが、本書を読んで「保留」から「懐疑」へと立場を変えた。自助原則の年金制度の矛盾、労働市場における社会的弱者の排除、生活保護を受けない(受けられない)貧困層の存在、公的給付の被受給者の「屈辱」など、今日の社会保障上の諸問題を解決する上でベーシック・インカムは魅力的な提案ではあるが、結局のところマジョリティが「無条件の生存権」を承認することが実現の必要条件である、まず「理念」の受け入れが先だという点に、私は現行の社会保障制度がすべての貧困者をフォローする不可能性以上の不可能性を感じたからである。

 ベーシック・インカムと聞いて、もし、「えっ!?」と思うのであれば、生存権に条件が付いていて当然だと自分が思っていないか、考え直してみてもらいたいんです。その結果、ほとんどの人が生存権に条件が付いていても当然だと思うのであれば、それは仕方がない。ただ、私は、そうではないだろうという希望を持っています。 (p.257)

 この先数十年というスパンでは、むしろ逆に社会での「有用性」を証明できない限り、生存権を認めないという潮流が強まると私は確信している。「事業仕分け」の熱狂ぶりに象徴的なように、「無駄なものは排除」という傾向はこの国の大衆を固く支配しており、この思考の終着点は「無駄な人間の排除」=レイシズムである。一見「仕分け」を批判している保守ナショナリストもまた本質的に「足手まといは不要」という思考を有し、さらにコミュニストも本書中で言及されているように「働かざる者食うべからず」の原則を捨てていない以上、「無条件の生存権」は決して一般化することはない。もちろん「仕方がない」では済まない。
 さらに問題なのは、そうした「理念」を前提としないで、制度論としてベーシック・インカムを考えた場合、むしろ社会保障の弱体化に寄与する危険性もあることだ。あるドイツの経営者が法人税最低賃金も廃止して、消費税を財源としたベーシック・インカムでフォローすべしと主張していることが紹介されているが、これなどベーシック・インカムを楯に現行の社会保障制度を破壊しようとする試みだろう。結局のところ年金全額税方式と同様、企業の社会保障費負担廃止の議論に利用されるだけではないか。また子ども手当の所得制限議論にみられるように、普遍主義福祉に内在する逆進効果も考慮しなければならない。山森はスウェーデン型の高負担高福祉の実現性のハードルの方が高いとみているようだが、まだ具体的なモデルがある分、ベーシック・インカムよりはいくらか現実的ではないだろうか。