歴史叙述における「あるべき民衆像」の押しつけという問題

 いうまでもなく歴史学は、あったことを発掘し意味づけ再構成してゆく学問である。民衆の歴史についても、もとよりおなじことがいえる。しかし運動史の自転は、あるべき民衆像の強調に、場合によるとおちいるおそれがなくもない。そのとき歴史叙述は、国民の、歴史への参加意識をうすめたりおしとどめたりする方向に機能したりもする。もしそれが、それぞれの人生体験に裏打ちされたところの、人びとの心にひそむなんらかのわだかまりを、ひきだすというよりはのみこませるようなことがあれば、その歴史叙述は、いかに"進歩"的であっても、人びとをときはなつ方向にでなく、おさえつける方向にはたらくことになる。それは、「民衆」というあたらしく定立された"えらいさん"(小田実のことばを借用)の歴史となり、その歴史展開を他人事視させる素因をつくるだろう。歴史文学が、"英雄"たちの心事を、読むひとそれぞれに思いあたるようにえがいているのに。 (鹿野政直「国民の歴史意識・歴史像と歴史学」『岩波講座日本歴史24 別巻1』岩波書店、1977年、p.257)

 「国民」の実在を疑う必要のなかった「想像の共同体」論以前の"幸福な"時代の迂闊さは別として、歴史家の歴史叙述が受け手に対して「〜あるべき」と強調する場合の、歴史家と一般の大衆との乖離を確実に予見していた。まさに民衆史を含む「左翼」の史観は「えらいさん」=「プロ市民」の歴史とみなされ、「人びとの心にひそむなんらかのわだかまり」と衝突し、歴史修正主義への渇望へ連なっていった。「自由主義史観」が単なる藤岡信勝個人の「転向」ではなく、源流をたどれば、歴史学啓蒙主義に反発する教師たちの左派系教育団体からの集団離脱(教科研教授部会→授業つくりネットワーク)に端を発していることを考えれば、この問題は極めて重大である。