石川公彌子『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学 戦時下の柳田國男、保田與重郎、折口信夫』(講談社、2009年)

 本居宣長平田篤胤国学が含有していた「弱さ」を肯定するまなざしを受容、継承した思想家として、柳田國男折口信夫保田與重郎を取り上げ、特に柳田と折口を「近代国学」と位置付けて再評価を行っている。
 柳田は「『国民』育成の言説を一貫して峻拒し、『弱い』個人を郷土とイエに結びつけて肯定」したという。ここで言う「イエ」とは近代国家による個人支配の道具としての家制度ではなく、非血縁者を包含する家職制度としての「イエ」である。一方、折口は柳田の「イエ」の論理を否定し、「個人と個人が直接結びついて心の深部で交歓しあう人間関係」を重視し、他者に開かれた「親密圏」を目指したという。柳田、折口の「近代国学」を「復古神道の社会批判機能に着目してそれを日常倫理として内面化し、言論や投票といった政治行動によって社会変革をもたらそうと試みた運動」と評し、戦時下における体制への「抵抗」を読み取る。国家の「強さ」の論理とは異なる、「弱さ」を前提とした共同性の構築という点で、特に折口の思想に今日的意義を見出している。
 著者は「氷河期世代」であり、昨今の貧困問題を念頭に置いていると思われる。資本の弱肉強食の論理によって個別に分断された労働者が、ナショナリズムや家制度に回収されずに相互扶助を可能とする共同性を確立する方法論として、公共性を持った「親密圏」を仮定しているのは間違いない。その問題意識は同世代として非常に共感できるが、そうした先入観を除いて客観的に本書を読むならば、柳田や折口の膨大な言説の一面だけを都合よく切り貼りしている感もなきにしもあらずである。国学には近代ナショナリズムへつながる側面もあることは周知の事実であり、また柳田にしろ折口にしろ、その思想に「強さ」の論理と結びつく要素が本当になかったのか疑問である。戦後の(現在も続く)彼らへの批判をすべて「誤読」と片付けるわけにはいくまい。
 そのうえで、ネガティブな私は、柳田や折口と同様「弱さ」を肯定しつつも、先行世代の彼らとは異なり、共同性を忌避して個人主義的な「美学」へ逃避したと本書では評される保田の軌跡に、現代の「氷河期世代」の末路を重ねてしまう。保田の世代はまさに世界恐慌による就職氷河期に当たり、「巷には青年の職と仕事を求める声があふれてゐたが、政府は何の手だてもなし得なかつた」と告発する姿は、まさに私を含む現在の「氷河期世代」そのものである(しかも三木清の保田世代への批判がこれまた現在の「氷河期」批判と全く同じ!)。そして資本の論理が「内面」をも支配する中で、「親密圏」を自力で形成することができない我々は、結局のところ保田のように「戦争」での「自殺的討死」くらいにしか価値を見出せないのではないか。歴史は繰り返すということはないが、「弱さ」の肯定の"両義性"は無視できないだろう。