天皇の「公的行為」と憲法

 鳩山内閣は25日までに、外国要人との会見など、天皇陛下の「公的行為」のあり方についての政府見解をまとめた。公的行為は幅広い分野に及ぶため、天皇の政治利用を防ぐための統一的なルールを設けることは「現実的ではない」と指摘。個別の行為の意義や国民の期待などの事情を考慮して、公的行為にあたるかどうかを判断すべきだと結論づけている。
 (中略)
 政府見解は、公的行為として外国賓客の接遇、外国訪問、国会開会式や新年の一般参賀への出席などを例示。「それぞれの公的行為の性格に応じた適切な対応が必要となることから、統一的なルールを設けることは現実的ではない」と位置づけた。
 さらに、公的行為は「国事行為」と違い内閣の助言と承認は必要ではないとの見解を示した上で、内閣は「公的行為が憲法の趣旨に沿って行われるよう配慮すべき責任を負う」とした。 (朝日新聞 2010/02/25 12:09)

 結局、歴代政権による「拡大解釈」を踏襲し、「私的行為」と「公的行為」の境界をぼかし、さらには「公的行為」が「君主の権力行使」となっている実情を追認したと言えよう。

 政府はこれらの行為を、「憲法4条は、象徴としてではなく、国家機関としての天皇の行為を定めているのだが、天皇も自然人であり、自然人としての行動はある。それに、象徴としての地位が反映されて公的行為となるのだ」(1973年6月19日衆議院内閣委員会における吉国内閣法制局長官の答弁要旨)などと説明している。これは憲法学者の間において一時期有力であった「象徴としての行為」説とほぼ同様の見解である。この説は、天皇には国家機関としての地位、私人としての地位の他に、象徴としての地位が存在するとして天皇に3地位を認めた上で、人間象徴の動態における行為を「象徴としての行為」として把握し、国事行為・私的行為以外の第3の行為を認め、右にあげた諸行為がこれにあたるとするものである。
 これに対し、近年有力になってきた説は、「公人としての行為」説である。この説は、知事や市長の鉄道開通式への出席などの例をあげて、一般に公人には法的機能とは別に儀礼的行為・事実行為が期待されているとして、天皇もこの例外ではなく、社交的行為が認められるとするものである。この説によっても、右の諸行為のほとんどは憲法上許されるものとなる。
 これら天皇に3行為を認める説に対し、象徴に特別の法的意味を見出すことに反対し、天皇は国事行為を行うときのみ象徴であるとした上で、「『憲法の定める』国事に関する行為『のみ』」が憲法天皇に公的に認められる行為であるとして憲法の文言を重視し、国事行為・私的行為の2行為のみを天皇に認める説がある。この説では、国事行為に含まれるとして構成できるものを除き、右の諸行為はすべて憲法違反の行為であり、本来行ってはならない行為だとされる。 (横田耕一『憲法天皇制』岩波書店、1990年、p.p.91−92、漢数字をアラビア数字に置換した)

 憲法を厳密に解釈すれば、2行為説が合理的で妥当。そうでなければ「国事行為」執行者としての天皇の権力行使を制限できても、「象徴」としての権力行使を制限できなくなる恐れがある。「憲法の趣旨に沿った公的行為」など矛盾でしかない。仮に「公的行為」を容認するとしても、国会が一定の制限を規則化するべきではないか。